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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



儒学仏教陰陽道の伝播

神道の日本を襁饗の裏に育成して、国体を定めて皇統を始めたるは、其最功力のある時代となりとす。然ども成長の後に、時運の進みて、大陸地に万般の学芸鬱興すれば、我国にも輸入して、環開進せざるべからず、漢の朝鮮を滅ぼし平壌に帯方郡を置くに當り、我西国より交通する者三十余国に及ひ、筑紫伊都津を開き、彼郡よりも使節館を建てれば、通譯の人もなかるべからず、漢字も講ぜざるべからず、崇神帝の末には、加羅国地を献して内薥し、任那府を韓土に置れたり。此時己に祭故一致にて治むべからず、必ず漢の儒学は輸入したらん、更に遡りて考ふれば、秦人馬韓に移住して辰韓を成し、少名彦命の海を航し来りて、大己貴神と共に国を造り、医療禁厭の法を教へたる時より、漢学ははや入たるなん。 時代は書紀の紀年を舍て考ふべし、応神帝百済より博士を召し、皇子に論語千字文を授けしめ給ひしは、儒学の宮中まで上りたるなり。其時の儒学は固りよ朱子学に非ず、亦唐の註疏にも非ず、大抵晋末に当れば、何晏の集解にて、修身よりは寧ろ政治学に近し、其後継体帝の朝に、五経博士を召され、天智帝以後は隋唐の学を主用せらる、皆政治学なり、神道とは其用を異にす、而して儒学の最も主張する天地の郊祀完廟の匡袷等は、一も用ふるなくして、猶古来の神道祭天の俗に従はれたるは其慮る所甚深し、神道を説くものゝ特に着眼すべき要點なり。然れども神道は誘善利生の教典なきにもならず、攘災招福にも欠典を感じたらん、因て漢学の伝播に従ひて、陰陽道も入たるならん。是は漢代盛んに行はれたる讖緯書に本つく者なり、北史に〔百済知医薬蓍亀。与相術・陰陽五行法〕とあれば、必ず此国を経て輸入したらんと覚ゆ、紀の推古帝十年に、〔百済僧勧勒来之仍貢暦本。及天文地理書。并遁甲方術之書也。是時選書生三四人。以俾学習於勧勒矣。云云。大友村主高聡学天文遁甲以成業〕とあり、三代格に、陰陽道は周易新撰陰陽書黄金匱・五行大義名等を主用す、易は五経の一にて、継体の朝已に学に立てり、緯書の伝はること必早からん。古事記及ひ書紀の一書を塾看するに、神代巻には陰陽説及ひ周時の風俗に附会したる痕跡をまゝ発見す。蓋漢学已に入り、仏教まだ伝はらぬ際に於て、緯書其他の方術を以て、未来を前知し、災害を避ることを講したる結果なるべし、是も亦一時の気運にして、久しきを経て弊れ今も民俗に存する陋習は、神道仏教よりも、陰陽説より出たる拘忌 甚多し。
儒学は只現在を論す、陰陽道の未然を知るも、誘善利生の旨に乏し、仏教の三生因果を説くは、神道の襁饗を離れて、心理を開闡するに、屈強の教なり。其支那に伝播したるは、我倭奴国の使洛陽に至りし比に端を開き、神功皇后征韓の比は、已に盛んに行はれ、応神帝の比には高麗百済に流布したり、其後三韓の往来頻繁になり、筑紫中国筋に流入りたるは必す早からん。史乗に見えたるは、継体帝の朝に始まる、欽明帝戌午歳 法王帝説豦る、書紀の紀元にては宣化帝三年なり、 に至り、遂に断然と百済より仏教仏像の献を受給へり、是彼国に後るゝ百五十年なり、文明の競進より論ずれば遅鈍なりとすれども、国の舊俗を守るに厚く、急遽に外教に移らざるは、日本人の気象にして、国体の堅古なる由縁なり。仏教者は因て実相真如の体は、我熱信する天神なることを示し、本地垂跡の理を説たるを以て、衆心靡然として之に帰依し、敬神の心を移して、并せて崇仏に注き、二百年を経て敬神崇仏の国となり、仏教の糎闡は他国に超越するに至りたるは、歴史上に於て、国の光輝と謂て可なり。仏教の入りたる後は、神社と仏寺と、並に崇敬せられて勝劣なきは、歴史に明白なり、仏に偏して神に疎なりと思ふは僻める説なり。但し仏教も久しきを経るに従ひて弊れたり、委しくは他日を待て論せん、若又神道にのみ僻し、今日まで神道のみにて推来るならば、日本の不幸は実に甚しからん。前條に挙たる大化二年の詔を一顧すべし、崇神帝以後数百年間に、神道の国民を教化したる結果は如何なるぞ、続紀神亀二年七月の詔に、〔今聞諸国神祇。社内有穢臰。及放雑畜。敬神之礼。豈如是乎。宣国司長官自執幣帛。慎致清浄、常為歳事〕と、又天平二年九月の詔に〔安芸国周芳国人等。妄説禍福。多集人衆。妖祠死魂、云有所祈。近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人、少乃数千〕とあり、かゝる人民を開誘する為めに、唐韓諸国の皆弘むる仏教の方便に依らすして、教典さへ備はらぬ神道の古俗に任せたらば、全国今に蒙昧の野民に止まり、台湾の生蕃と一般ならんのみ。
神道の日本を育成したるは、慈母の恩あり、されども成人の後まで、永く母の左右にのみ居るべからず。総て地球諸国みな神道の中より出て、種々に変化したれども、国本を維持して、順序より進化したるは、日本のみなり。神道の時に定りたる国帝を奉して、敢て変改せず、神道の古俗を存して敢て廃棄せす、かの新陳代謝の活世界を通過し、時運にも後れさればなり、凡国には主宰者を立てゝ、政務の本を統べざるべからず、此至尊なる位は断して人事を以て定め難し、智愚賢不肖を擇まず、只其創世に当り、純に天神を信したる時に於て、神意とて定めたる君主を、国のあらん限り、永遠に奉ずべし。此外に萬古不易の国基を定むる方法はなし、日本人は天神の子孫を天日嗣に奉し、少しも心を変せず、其日嗣の天子に、悪徳の君は一代もなく、叉系統の絶える不幸にも逢はす、九世親盡たる疎遠の系統に、此位を伝う不幸にさへ逢はずして、今日に至るは、誠に人力には非し、天神の加護を忘るべからず、他国を見よ盡く人事の麤忽にて、一度国祚を変更したれは、帝位は国民の競事物となり、常に国基を安定するに辛苦しつゝ経過するに非すや、我国の萬代一系の君を奉するは、此地球上に叉得られぬ歴史なり、其誇るべき国体を保存するには、時運に應して、順序よく進化してこそ、皇室も益尊栄なるべけれ、国家も益強盛となるべけれ。世には一生神代巻のみを講して、言甲斐なくも、国体の神道に創りたればとて、いつ迄も其挙饗の裏にありて、祭政一致の国に棲息せんと希望する者もあ り。此活動世界に、千餘百年間長進せざる物は新陳代謝の機能に催されて、秋の木葉と共に揺落さるべし、或は神道を学理にて論ずれば、国体を損ずと、憐れ墓なく謂ものもあり、国体も皇室も、此く薄弱なる朽索にて維持したりと思ふか、歴朝の烈を積み、其神道の中より出たる国を養成せられたる、百廿餘代の功徳は、染みて人心にあり、其間に他の諸国は、一度国本を変動し再び復すへからして、革命の禍を痛嘆したる歴史を経過したれば、最早皇綱は安固なり。此に観察して、益盛大富強を圖るべし、徒に大神宮の餘烈にのみ頼むは、亦秋の木葉の類なるべし。余既に神道の大本に就て、共国体と共に永遠に保存すべき綱領と、国民に浸潤したる美風とを論述したり。其他の廃朽に属する枝葉と、中世以来の謬説とは、本を振し葉を落して、本幹を傷害せざる様にすべし、是亦国家に対する緊要の務めなり。

神道を以て「只天を祭り攘災招福の祓を為すまでなれば、仏教と並行はれて相戻らず」と云ふ、卓見と云ふべし、若し仏法にして渡来せざりしならんには、神道は或ひは宗教とまで発達したらんも知るべからずと雖も、中途にして仏法渡来し且つ之と共に文学移入したりければ、我神道は半夜に撹破せられたる夢の如く、宗教の体を備ふる能はざりしなり、後世に至り之を以て宗教となさんと欲するものありと雖も、是れ遅まきの唐辛にして国史は之を許さるゝなり、而して其事覚を證するもの著者に若くなし。
                        鼎 軒 妄 批
神道は祭天の古俗 終



神道の弊





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.540-543
   1929(昭和4)年発行