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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



神道に地祇なし

神道に地祇なしとは、頗る世聴を驚かすならん。然れども余は神道に地祇なしと信ずるなり。支那の地祇てふ字は、后土を祀り、社稷を祠り、山川を祭ることなどを云、我古代にはかゝる例なし。但し諸再二尊の八大洲国及山川草木を生ことは、書紀の正文に記して、山神は大山津見神、海神は大綿津見神、又少童命 土神は埴安、野神は野椎、木神は久々能智などゝ、紀の一書及古事記に載せたり。これは山・川・野等を主るものにして、大山津見の子孫は吾田国 今の薩日隅 君なり、海神は、記に阿曇連等者其綿津見神之子、宇都志日金折命之子孫也〕とあり、又又姓氏録にも見ゆ。伊豆伊予の三島社、及隠岐に大山祇神を祠るは、吾田君の兼領地にて、筑前志賀島の海神社は、海神国なるべき、対馬・壹岐・隠岐・但馬・播磨等の海神社は、其兼領地なるべきことは、己に史学会雑誌におきて辨したり。夫れ天照大神・月読命は、日月を祭るに非ず、津守氏の住江津に祠る住吉社は、津神を祭るに非す、山神社・海神社も亦然り、又後世の地神祭、或は北辰祭は、皆陰陽道に出つ、是を以て日本に日月星辰を祭り、山海河津を祀ると思ふ者は、全く歴史を解せざる者の妄説にて、辨するに足らす。爰に辨ぜざるを得ざることは、神武常以来の歴史に、明かに天神地紙を記し、後に神紙官を置き、神祗令を制し、続紀の元明帝聖武帝の宣命文にも、天坐神地坐祗とあり、地祗とは何如なる神をいふにやと考ふれば、神祗令に、〔凡天神地祗者。神祗官皆依常典祭之〕と、義解に〔謂。天神者。伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造斎神等類是也、地祗者。大神・大倭葛木鴨・出雲大汝神等類是也〕といへり。出雲国造近斎神とは出雲の熊野社にて出雲大汝神とは杵築の大社なり、熊野社は素箋鳴尊を祭る、因て天神とし、大敵は大汝命を祀る、因で地祇としたるにや、其別甚た明白ならねども、支那の皇天后土とは異なることは明かなり。大神はおほみわと訓す、大三輪社の事は前條に挙たる如く、大汝命の幸魂奇魂を祠りたる社なれば、亦天神とこそ云べけれ、大倭葛木鴨は、紀に 一書 〔大巳貴神之子。即甘茂君〕とあり、記に〔大国主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣命。生子阿遲藩鉏高日子根神。云云今謂迦毛大神者也〕とあり、姓氏録に、〔大国主神之後。大田田彌古命之孫。大賀茂都美命奉斎賀茂神社〕とあれば、景行成務の朝に建たる社にて、大三輪社と同体の神社と思はるれば、地祗は只大国主命のみを云が如し。姓氏録の神別に、天神天孫地祗を分ちて、地祗には大国主・胸形三紳・海神・天神穂分・椎根津彦・井光・石押別等の後を彙集したり。海神は住吉神と共に諾尊秡除の時に現生し、筑前邦珂郡並に其社あり、宗像社は天照大神の御女なるに、住吉と素箋鴨とは天神に列し、海神と宗形とは地祗に列す、何とも共理の聞えぬことなり。
地祇の起りを繹ぬるに、紀に神武帝宇陀より磯城磐余へ打入の前〔天神訓之曰。宜取天香山社中土。以造天平瓮八十枚。并造厳瓮。而敬祭天神地祇とあるを始見とす。其時弟猾の奏には、〔今当取天香山埴。以宮造天平瓮。而祭天社国社之神〕に作れば、天神地祇と天社国社とは互文にて其実は同し。時に椎根津彦・井光・石押別は、皆軍に従ひたれは、所謂地祇は大三輪社あるのみ、皇師に抗したる登美彦 即長髄彦 は、大三輪の一族なれは、此地祇は大三輪社 をさすに非ざる明けし。且大已貴命の大三輪社を建たるは、瓊々杵尊の西降し、天照大神伊勢降臨の後ならん、然れば日向の宮に於て、大国魂神を地祇として祀らるゝ故もなし、崇紳紀に〔先是天照大神倭大国魂二神。並祭於天皇大殿之内〕とは、必ず神武帝の大倭を平定して、大三輪君より五十鈴姫を皇后に納給ふ後のことなるべく、其以前の国社は大己貴に非ざること明々白々なり。是を以て考ふるに、天社国社とは、天朝より斎きたるを天社とし、国々に斎きたるを国社とするなるべし。今の官幣社、国幣杜の如し、祭神にて別つに非ず、故に筑紫の宗像社は国社にて、出雲熊野社は天社とし、墨江の住吉社は天社にて、筑紫の海神社は国社とするも妨けなし、みな天に在す神を祭るなり。地に顕れたる神には非ず、叉人鬼を崇拝する社にも非ず、然るに早き時代より此義を誤たるりにや、天社 国社を神紙と譯したり。古事記は漢譯の誤なしと称すれども、紀は〔崇神帝七年定天社国社。及神地神戸〕とあるを、記は〔定奉天神地祇之社〕と書たり、令も其時代に定めたれば、己に神祇の別を誤れり、まして姓氏録は猶百年も後の書なれは、前に論ずるが如き混雑なる分別をなすに至れり、令義解に山城の鴨を天神とし、大倭萬木鴨を神祇としたるも甚疑し、山城の鴨は別雷神社 一に若雷 と称す、故に天神としたるならん、然れども其創建に遡れば、大倭の京にてありし時は、山背は吉野と同しく、靑垣山の外の平野にて、此に天神を建られたることは不當なり。思ふに大倭の大三輪社の如く、山城の国社なるべし、平安奠都の後は、其国の産土神なる故に、別段に尊敬せられたるなり。凡諸神社祭神の説は、神道晦みたる後の附會なれば、紛々として影を捉ふが如し姓氏録に素戔鳴は天神、天穂日は天孫、宗像三女は地祇とするが如く、不倫甚だし。此くいふ故に、神祇は人鬼を崇拝するものゝ如くなりて、益神道の本旨を失ひたり。


賢所及ひ三種神器
神道に人鬼を崇拝せず





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.533-535
   1929(昭和4)年発行